2025年に大阪で万博が開催されることが話題になっています。日本で万博が開催されるのは今回が初めてではなく、過去に5回も行われています。とくに有名なのは「日本万国博覧会(大阪万博)」です。
しかし、当時の万博に参加していない方や、万博という言葉に馴染みがない方にとっては、内容をイメージするのは難しいかもしれません。
本記事では、昭和の大阪万博はいつ開催されたのか、開催時期や概要をわかりやすく解説します。昭和に行われた大阪万博について理解を深め、2025年の万博との違いや楽しみ方を見つけてみましょう。
目次
日本で初めて開催された万博は、昭和45年(1970年)の「日本万国博覧会」です。大阪で開かれた万博であることから「大阪万博」と呼ばれています。
昭和45年(1970年)の大阪万博は、3月15日〜9月13日までの183日間にわたり開催されました。77の国と4つの国際機関が参加した万博で、会場内には116もの展示館が建てられたこともあり、戦後の日本を活気づけるビッグイベントだったといえます。
万博の始まりは、ロンドンのハイドパークで1851年に開催された「第1回ロンドン万国博覧会」であり、国際博覧会条約では以下のように記載されています。
”博覧会とは、名称のいかんを問わず、公衆の教育を主たる目的とする催しであって、文明の必要とするものに応ずるために人類が利用することのできる手段又は人類の活動の一若しくは二以上の部門において達成された進歩若しくはそれらの部門における将来の展望を示すものをいう。”
引用元:外務省「国際博覧会条約」抜粋
日本からの初出展は、1867年の「第2回パリ万博」であり、その後、日本で昭和45年(1970年)の大阪万博を含む5つの万博を開催しました。日本で開催された歴代の万博は、以下の5つです。
万博名 |
特徴 |
日本万国博覧会(大阪万博) |
日本で初めて開催された万博で、77カ国と4国際機関が参加し、総入場者数は約6,422万人にもおよんだ。 |
沖縄国際海洋博覧会 |
沖縄本土復帰記念として開催され、世界で初めて「海」をテーマにした国際博覧会となった。 |
国際科学技術博覧会 |
「人間・住居・環境と科学技術」をテーマに、科学技術を通じた国際親善に貢献した。 |
国際花と緑の博覧会 |
「青いケシ」「肥後のシャクヤク」など、希少な植物を含む約1200種類・250万本の草木が展示された。 |
2005年日本国際博覧会 |
「自然の叡智」をテーマとして新しい文化・文明の創造を目指して開催された。 |
そして、日本で第6回目の万博となる「大阪・関西万博」が、2025年4月13日(日)から開催される予定です。
昭和45年(1970年)の大阪万博は、77カ国参加のもと6,400万人以上もの人が来場し、2010年の上海万博までは万国博覧会史上最多でした。開催から50年近く経過してもなお、語り継がれる歴史的なイベントだといえます。
昭和45年(1970年)に開催された大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」でした。このテーマには、技術文明の進歩がもたらす恩恵だけでなく、自然や人間性に与える影響も考慮すべきだという意味が込められています。つまり「調和」のある「進歩」を実現するための博覧会でした。
また、展示物には以下の4つのサブテーマを満たすことが求められています。
昭和45年(1970年)の大阪万博では、科学技術の進歩と人類の調和という普遍的なテーマを掲げることで、国際的な共感を得ることに成功しました。
昭和45年(1970年)に開催された大阪万博の入場料は、以下のとおりです。
現代で考えると破格の値段ですが、当時の平均月収は5万円だったため比較的高額とされていました。高額な料金設定にもかかわらず、6,400万人以上の来場者数を記録しています。
これは当時の日本における人口の半分以上に相当する数字で、万博の人気と社会的影響力の大きさがわかります。
昭和45年(1970年)に開催された大阪万博は、日本の高度経済成長期を象徴する一大イベントとなりました。海外からは76カ国が参加、入場者数は6,400万人以上を記録しており、当時の経済効果は約4兆9,509億円におよぶといわれています。
また、万博に合わせて高速道路が開通するなどの大規模なインフラ整備も行われ、経済成長の追求だけでなく、今の日本に通ずる質的に充実した経済発展も実現しています。
昭和45年(1970年)の大阪万博では、116もの展示館が建てられていました。ここでは、展示されたパビリオンの一例を紹介します。
太陽の塔は芸術家の岡本太郎によってデザインされた独特な建造物で、昭和45年(1970年)の大阪万博におけるシンボルとされていました。高さは約70メートル、基底部の直径は約20メートルと巨大な建造物です。
また、太陽の塔には、以下のような異なる意味を持つ4つの顔があります。
太陽の塔は祭りの中心を示すもので、来場者に多くの感動を与えました。
鉄鋼館は、当時の日本における鉄鋼産業の技術力と創造性を示す重要なパビリオンです。特徴は、以下のとおりです。
また、内部では鉄鋼産業の技術力と将来性を示すために、スピーカーを含む各種の音響機器が展示されていました。
富士グループ・パビリオンは「21世紀へのメッセージ」というテーマをもとに、製作されました。ホロ馬車のような形をした空気構造の建物で、直径 4メートル、長さ78メートルのエアビーム16本を横に連結した展示物です。
来場者は回転歩道で館内を一周している中で、全的体験方式によるマルチビジョン映画を視聴できました。
アメリカン・パークは13の建物と2つの広場からできた合同展示館で、アメリカの産業や、文化のエネルギッシュな姿を表現する内容です。食堂ではアメリカの料理が提供され、とくに、フライド・チキンとフローズン・コカコーラが好評でした。
カナダ館は外壁を一面の鏡で覆う斬新なデザインで、工事中から注目を集めた展示館の一つです。展示は6つのコーナーに分かれ、コンピュータを使用した視聴覚展示でさまざまな角度からカナダの国土や自然、文化を来場者に示しました。
ソ連館は展示棟とレストラン棟の2つの建物によって構成され、外壁面は鮮明な赤と白で彩られた展示物です。当時の万博では最大規模を誇るパビリオンで、人工衛星「スプートニク1号」など、宇宙開発技術に関する展示がされていました。
ドイツ館は「音楽の花園」をテーマに、4つの噴水と緑の芝生、美しい花園が広がる展示館です。全館に流れる音楽と、ドイツの四季の花で埋め尽くされた庭園によって、平和な未来を築くために努力しているドイツの姿が表現されていました。
昭和45年(1970年)の大阪万博がきっかけで広がったものは、以下の3つです。
それぞれ見ていきましょう。
昭和45年(1970年)の大阪万博では、以下のようなインフラ・設備・建築が話題になりました。
これらの革新的なインフラ、設備、建築の多くは、大阪万博後も日本全国に普及し、都市開発や大規模イベントの運営に大きな影響を与え続けています。
昭和45年(1970年)の大阪万博は、日本の家電・エレクトロニクス産業にとっても大きな転換点となりました。具体的には、以下のようなものが展示されていました。
これら以外にもエアコンや自動販売機などが大阪万博をきっかけに多くの人々の目に触れ、その後全国に普及しています。
昭和45年(1970年)の大阪万博は、日本の食文化にも大きな影響を与え、以下のような食べ物が広まるきっかけとなりました。
昭和45年の大阪万博がきっかけで話題を集めた食べ物は、今でも身近に残っています。
昭和45年(1970年)に日本で初めて開催された大阪万博は、6,400万人以上が訪れ、日本の高度経済成長を後押ししました。このイベントは「科学技術の進歩と人類の調和」をテーマに掲げ、国際的な友好関係を深める点でも貢献しました。
2025年に再び開催される大阪万博では、新しい技術や文化がどのように紹介され、国際的なつながりがさらに強化されるのかが見どころです。
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